水素論で本来伝えるべき事
ウスペンスキーの「奇蹟を求めて」はグルジエフの初期の講話の記録としては正確なものですが、重要な要素を伝えそこなっているということもまた周知の事実として知られています。「奇蹟を求めて」と実際のワークとの間にある大きなギャップがあります。グルジエフの「ベルゼバブの孫への話」にごく普通に書き表されていることが、「奇蹟を求めて」では大層大げさなことになっています。
ジャン・ヴェス著『目覚めに向かって』はそのギャップに対して、良心的に橋渡しをしたものになっています。
水素論も「奇蹟を求めて」では大げさな内容になっていますが、実際的に、できないようなことを言っていたわけではないんです。実践部分については、過去の講座の中で理論をすでに説明していますし、実践内容まで、説明済みです。 一見、理解しやすそうな「奇蹟を求めて」ですが、特有の躓きの石もセットで仕組まれているということです。グルジエフとは無関係のカルト教団が悪用したのも「奇蹟を求めて」ですが、その中に書かれていることを自分の教団向けに都合の良い解釈に変えています。
「奇蹟」には、あちこちに抜けたところがあるのですが、一点補足すると、「奇蹟」のなかの水素論の説明でなぜ、数を三段階縮小させたのかの象徴性を理解すれば、あちこちの神智学文献に散見される「水素論」のことの理解が深まります。
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