「奇蹟を求めて」の問題点

二日前に「奇蹟を求めて」P.D.ウスペンスキー著からの引用をしました。 

1915年からの6年間にわたってウスペンスキーがグルジエフから聞いたり、体験したりしたことの 記録として、「奇蹟を求めて」は有名なものです。 

原稿は長い間、非公開だったのですが、ウスペンスキーの死後、ウスペンスキー夫人がグルジエフのもとに持参し、出版の許可を求めたと伝えられています。

グルジエフはこの原稿にかかれていることは、記録としては、かなり正確であることは認めています。ただ、それと同時に何かが異なっていることも、グルジエフは言っていたと伝えられています。

 

詳しく記録していることと論理がきれいに整理されていることは「奇蹟を求めて」の特徴です。

しかし、人のハートに伝えるべきものが、別のものになってしまっているということも、時間とともにわかってきます。私は最初のころは、この「奇蹟を求めて」がグルジエフ思想の入門書のように思っていたのですが、今では、この本の危険性、本来、人の精神に根付かせるべきあるものがぬけることを助長することが含まれているのを感じます。  

「奇蹟を求めて」はたとえるとゴシック建築風の作品であって、天に向かって思いっきりのび上がっているけれども、決して天に届くことができないという感じがあると思います。 

その一方で、グルジエフ自身が書いたものには、そんな感じはありません。グルジエフの最初の本は、あまりにも特徴的な書き方をしているので、その真価がなかなかつかめませんが、内面の生命力は確実にグルジエフが書いたものにはあります。 


ウスペンスキーはグルジエフから自分の基準に合ったところだけを引き出そうとしていたので、知性的な面に大きく傾いた作品になってしまったのでしょう。 

一方、グルジエフは「調和的な発達のための学院」を組織しようとしていたくらいですので、頭と胸と腹のセンターの調和的な協同のために、神聖舞踏やその他のワークを複合的に指導していました。


 コピーしたものは、似ているようでも、本質が異なっていることがあります。 本物とコピーでは、実際に生み出す結果は大きく異なってしまうという結末になります。 

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